囲碁がぶっ壊れる本の紹介

タイトルからして危ない雰囲気が漂っていますが、そんなに危ないことは書きません。

のんびりとおくつろぎください。

 

私は60年前に 新聞の囲碁欄で数字と文字を覚えたというくらいに昭和、平成の歴史の生き証人にもなれそうな高齢者予備軍ですから囲碁の記憶は1960年位から始まっています。

1960年といえば私は3歳でした。

囲碁を覚えたことと、いきなり「囲碁なんて嫌いだ」と思って対局拒否したことは別途ブログにアップしますが、囲碁は自分で打たなくても楽します。

文章を読めるようになっても、自分で文章を書かずに人様の文章を読んで楽しむことができるのと同じです。

相撲ファンで相撲をやってる人ってごく少数でしょう。

 

棋譜が紙媒体しかなかった時代は、囲碁月刊誌の付録の名局細解が宝物でした。
若い人はもう見向きもしないかもしれないけど、1ページに数手が示されていて、数十ページを費やして一局を解説する贅沢な作りの小冊子です。

棋道の付録だったかな。


今はネットで検索して、誰かが入力してくれた棋譜を(感謝しつつ)漫然と眺めているのが楽でいいけれど、たまに総譜で全体を俯瞰して、序盤から中盤を脳内で再生することもあります。

子供の頃は10分で50~80手を再生できました。

62歳になって、脳力ダウンしているうえに最近はネット碁しかしていないから、できるかな? ということでネット碁高段者の終局図(総譜)を鑑賞してみましたが、全く追えませんでした。

総譜で見ると、昭和の時代の常識と現代のトッププロがインストールしている常識は相当に異なっているようです。

二手目から着手を探すこともありました。

変則的な布石ではなく隅を重視する普通の碁でも着手がずいぶん変わってきたことに気がつきます。

 

現代碁の鑑賞もしてみようかなと思っています。

今のところ、ややこしさの排除という方向かなと思っています。

昭和なら味消しと言われそうな手を決めてしまうのは対局時間が短いからかもしれません。昔の碁では様子見を打つかどうかで一時間以上時間をつかうなんて珍しくなかったです。

サンサン入りが早い(簡明で楽)

小目:小ケイマかかりと秀作のコスミが多い、挟むことは少ない

小目高掛かりに二間高ハサミ(妖刀)がほとんどない。

目外しからの大斜百変がほとんどない。

大ナダレ定石は未完成なのに打たない。

 

でも、棋道に全身全霊を捧げ、ついに新手を発見し囲碁の歴史に一ページを加えることを自分の存在意義としたという昭和の棋士には「先生の囲碁観をお教えください」ということになり、人間として、棋士として、どのように自己を律し、時には息抜きをし、という実に含蓄のあるエピソードがきけました。

さて、現代碁で新手、すなわち「もっといい着手があるような気がする、それを見つけたい」というクリエーターの視点があるでしょうか?

意外な手をAIが打ったら検討し、AIの評価値の高いものを採用するだけでは囲碁の進歩がAI任せになってしまいそうです。

 

今、このブログを書いていて思ったのは・・・・

 

山下敬吾九段は、碁聖戦を5の5、天元戦を初手天元で制覇しました。当時のインタビューで、ゴロがいいし中央の戦いを重視しているから、と答えていました。

でも、数年後に「プロの感覚で言うとほんの少し甘いと思うようになったのでもう打たないと思う」と言っています。

こういう話が好きです。

AIにきいたら初手天元は少し評価が低いからやめました、という話ではありません。トッププロとしての矜持を維持しつつ、実戦で試しながら着手の良否を検討していたのです。

AIは勝ちやすい方法を計算して、予想して勝ちに来ます。

根本がコンピュータですから

だから初手天元の評価値を見て、初手天元を誰も打たないのでしょう。

 

初手天元はもしかしたら最善の一手ではないのか? と思ってチャレンジしてくれないかな。そういうプロが出たらネットで少額支援者をたくさん集めて生活基盤を作りながら囲碁を打ち続けられるような気がします。

 

自分の打つ碁が、戦闘を好むものに変化したことに気がついたので、プロの棋譜の見え方も変わったかなということで検証してみたら確かになにかが違います。
以前見た棋譜が新鮮に見えます。

 

ここで一人の棋士をとりあげたいと思います。

宮沢吾郎九段。
さかなくんのお父上です。

序盤でどこに打つのか予想しにくい棋士です。
対局相手との共鳴で面白い展開になるように、それを楽しんでいるように思えます。
そういう対局姿勢ではタイトルを制することはむつかしいというか、残念ながら無冠です。
でもその路線で、九段なのですから「とてつもないこと」だと思います。

武宮九段より学年でひとつ上。
石田、加藤、武宮の三羽烏と同世代です。
石田コンピュータ、殺し屋加藤、宇宙流武宮というニックネームがつきましたが、無冠の帝王宮沢で終わりました。


もし、宮沢さんが一つでもタイトルを取ったなら「天才宮沢」と言われたのではないかと思います。
私の見立てでは、宮沢九段は「勝ちたい」という俗なことは考えていないようにおもいます。
面白い展開に気がつくと、その結果を見たくなるいたずらっ子みたいな感じです。

「俺の相手は碁盤だ」と言って勝ちにこだわらず最善手を探し求めた梶原武雄先生と通じるものがあります。

宮沢さんも梶原先生の薫陶を受けています。
でも、梶原先生は碁盤に展開する石の姿を追求したのに対して、宮沢さんは「この人はどういう返しをしてくれるかな?」と問いかける感じです。
それまでに常識とされていた「棋理」をひっくり返すようなことはないのですが独特の雰囲気があります。


今から40年前に木谷道場から戦後生まれののレジェンドたちが、大量に誕生した背景には、常識に拘泥せずに面白さを追求した宮沢さんの存在があったと思います。

 

石田流に半目勝ちに行く碁

加藤流に相手の巨石をぶっ殺す碁

武宮流に前代未聞の大模様の碁

 

成果を出した皆さんも、それまでの旧定石や常識にとらわれずに自由な表現をしたのだと思います。

この戦後生まれの天才たちのなかでも、私よりひとつ年上の趙治勲さんのことは語りたいです。でも、今日は囲碁がぶっ壊れる本の紹介だから割愛します。

 

宮沢さんの本を以前買ったなぁ、と思って探してみたらありました。
「常識破壊」
2005年に出版されています。
この本は、強くなりたい人にはお勧めしません。
いや、むしろ読まないほうがいいかもしれません。
とても強い人が、壁を破りたくて敢えて読むというのはアリだと思います。
説明は明快で、級位者でもプロの碁を見るのが好きな人なら楽に理解できると思います。

囲碁の理解力は深まると思います。
でも手っ取り早く段位を上げたのなら読むのは遠回りになると思います。

 

私の評価 

 面白さ ☆4

 棋力強化 ☆2

 総合評価 ☆5!