囲碁 プレーヤーと鑑賞者について あるいは趙治勲への執着

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囲碁 プレーヤーと鑑賞者について あるいは趙治勲への執着

黒番が趙治勲、白番が苑田勇一、二年ほど前の棋譜です。

黒27が趙治勲流です(たぶん)。
少なくとも私には27と伸びる発想はありません。
この棋譜を見ても私には打てません。
わざわざ相手に、大切にすべき厚みを作らせてそれをガシガシと削っていくわけですか。
この碁は、苑田流と趙治勲流の面白いところが全開です。このまま永遠に打ち続けてほしいんだけど、碁盤は19×19だからいつか終わりが来ます。
そしてどちらかが半目負けることになります。
でも、どっちが勝つかなんでどうでもいい。

私が最近師事している広島県在住の高段者DKさんから、趙治勲さんの碁についてコメントをいただきました。

【師匠のことば(引用)】

趙治勲さんとAIの考え方は近いと思っています。
それがわかりやすい趙治勲さんの言葉は、「生きている石が厚い」で、AIもその考えがメインだと推測しています。

(私からお礼の言葉)お忙しい中、コメントありがとうございます。

師匠は多くの囲碁Twitter諸賢に「参考にしてください」と言って参考図を送ってくれます。
私だけではなくTwitter棋譜をアップしている多くの方にこのようにコメントをしています。
本来なら幾許かの授業料を支払って教えていただくようなことを無償でしかもこまめにやっていただいています。
余りに申し訳なくて
(実は私は法律や事務作業効率化(特にITを利用した事務システム構築)の仕事をしていて「知恵はいくらでも出しますけど仕事だからお金はください」という賤しい仕事をしています)
知識、経験、アドバイスは無料だと困るんです。
お礼になにかお歳暮を送らせてくださいと申し出たのですが、
「そのうち東京に行くことがあったら一杯飲ませてください」
ということになりました。

師匠の上京を心待ちにしております。


私の戯言に戻ります。

師匠DKさんのことば(Twitterのコメント)を拝読して、苑田勇一九段の著書にある言葉を思い出しました。

苑田勇一九段が15年くらい前に出した本に
「生きている石の近くは小さい、生きていない石の近くは大きい」
ということが書いてあって、基本原理は趙さんと一緒なのにアウトプット(棋譜)は全然違うな、と思ったことを思い出しました。

趙さんは私より一歳上なので、就学前の幼児期から応援していたから彼だけは別格で「さん」づけなのをお許しください。
ほかのプロ棋士にさん付けをすることはありません。

苑田先生と我が趙兄貴の棋譜は見たことがなかったので探してみましたらありました。

苑田先生は西の宇宙流(東、あるいは世界の、は武宮九段ですね)と言われますが、大模様を指向しているのではなく彼が見える大所を順番に打っていくと大模様になることが多いと理解しています。

武宮九段の碁も、別に大模様を目指しているわけではないというような言葉を十代のころに読んだことがあります。
これも40年以上前のことですが私は覚えています。

苑田先生の本を買って苑田流を私の老朽化した頭脳に適当に(別の言い方ではいい加減に)インストールした結果、全く「碁にならない」ようになりました。 
そのぶっ壊れ方というのはものすごくて、私の最盛期には東洋囲碁で5段だったのに負け続けて2級にまで落ちたことで証明できます。

こういうコペルニクス的な崩壊を最近もやらかしました。

広島の師匠と月一回の棋譜添削をお願いしているvtuber小澄らんかさんからほぼ同時に「基本死活と手筋の勉強」をしたほうがいいとアドバイスされて、恥ずかしながら60年の囲碁ファン歴で初めて、初心者が勝つための勉強を始めたんです。

これって、どういうことかというとプロ野球ファンを長年やってるけど野球をやったことがない人が草野球に参加してみたらショートゴロを捕るのも難しいし捕ったとしてもファーストに投げると大暴投みたいなことが起きたんです。

連敗しました。
二級まで落ちました。
野狐で3段に上がって、師匠と小澄らんかさんにお礼のメッセージを送った直後でした。

囲碁を続けようかどうかすごく迷いました。
プレーヤーとして三段か四段を目指す代わりに、棋譜鑑賞者としての鑑賞眼をなくしてもいいのか?
囲碁を覚えてから60年くらいで、自分で普通に打つとちょうど初段か2段くらいです。
東洋で5段になったのは、息子がものすごい勢いで強くなってきたので、いずれは父親を必ず超えてくる息子のために少しでも高い壁になりたいと思ったからです。
持ち時間30分以上(ネット碁ではほとんど無理ですね)で一生懸命に考えて5段が到達記録の私が、コンスタントに自分の楽しみのために3段で打てるようになりたいのかどうか。
自問自答しました。

ネット碁で見ず知らずの方(特に特亜方面の方)と打つと終局時のトラブルに出会うことがあります。
そういうことが続いたこともあり囲碁を打つことが嫌になりました。
で、ネット碁を打たなくなったらヒマになりますよね。
そういう時にはネットで検索して気になる棋士や好きな棋士棋譜をPCで再生してみていました。
やっぱり、囲碁はトッププレーヤーの作品(対局)を観戦者として見ているに限ると思いました。

でも、死活や手筋を少し勉強しただけで(それまでゼロだったから新鮮でした)、トッププレーヤーたちの棋譜がさらに面白く見れるようになったんです。
本に出てくるような手筋や死活問題はトッププレーヤーの棋譜には出てきません。
でも、そういうものはお互いに既定の事実として見えているという前提で打ち進められています。
そういう既定の事実が100あるとしたら、そのうちの大半は基本死活か基本手筋で説明済みのことです。
基本を超えた手を面白がって鑑賞するのが囲碁ファンである私のポジションだと思いました。
ちょっと基本死活と手筋を勉強するだけで、
「わー、すごいなl
と面白がっていたポイントが10あるとしたらそのうちの9は基本手筋の回避だったりすることがわかりました。
碁打ちとしては昔と変わらず初二段ですが、囲碁鑑賞者としては一ランクレベル上げできたような気がしています。

(蛇足みたいな追記 そして結論)
遅まきながらやっぱり囲碁も打ちたいと思いなおして今、野狐初段、東洋二段に戻りました。
師匠と小澄らんかさんに私が見落とした手筋や石の方向性をアドバイスいただきながらもっとトッププロの見えている世界を楽しみたいと思います。
その結果として
「コンスタントに3段で打てるようになればよし、なれなくてもよし」
というスタンスでこれから20年か30年(私の血筋はボケずに長命なのです)囲碁を楽しんでいきたいと思います。