囲碁、落語、文芸、将棋などの思い出。

囲碁を打って欲しいという記事を書いたのが一か月前。
その呼びかけに応じて一人の若者が打ってくれるようになりました。

OGSという囲碁対局サイトで、持ち時間無制限、お互いに打てるときに打つということで、平均3日かけて一局を打っています。
2局同時進行です。


その間に、「こちらは雨が降っていて寒いけどそちらはどう?」とか、「秋祭りで新米のおにぎりと豚汁を食べました」などの雑談をしています。

三十代前半、既婚、小さな子供さんがいて家業を継いで毎日仕事に汗を流している、という生活がチャットの端々から感じられます。

 

三十代前半と言うのは、63歳の私から見るとちょうど息子や娘の世代で若者という認識なのですが、社会的に見れば働き盛りの壮年ということになるような気がします。
しかし人生100年の時代ですから青年、壮年、老年の定義も見直す必要があるように思います。

 

ま、そういう定義を政府が主導してやる必要もないと思うので、私が属する60代前半はどこに属するかを考えてみます。

年金受給は65歳ですから63歳はまだ就労しなくては生活できません。
年金受給できる年齢になれば、数百万円の貯蓄があれば貯蓄を取り崩しつつ80歳くらいまでは質素な普通の生活をできると思います。

 

ここで言う「普通の生活」を私の生活に引き寄せて例示するなら

・家賃と水道光熱費の引き落としは心配しなくていい
・一週間に一度、餃子の王将くら寿司牛角レベルの外食をしても問題ない
・自宅で飲む安いワインや焼酎(麦が好き)は好きに飲める
・数カ月に一度、予算1万円~3万円で日帰りか一泊の旅行を楽しめる
・数カ月に一度、以前バイトで雇用していた若者に焼き鳥屋で酒をおごり昔話を聞いてもらう(迷惑だろうけど、それが私の楽しみなんだよ)

こんな感じです。

 

今、囲碁をネットでお相手してくれている若者は、私より二子上です。
ごちゃごちゃした石の取り合いでは老獪な私とほぼ互角と思います。しかし戦いが一段落した後でお互いに広い場所に打つわけですが、その感覚では私が負けています。
囲碁のハンディである置石がゼロにできる可能性もありますが、「勝負だ」という感覚が消滅して「教えてあげる」という力関係になる三子(圧倒的劣勢)に打ち込まれる可能性もあります。

彼からすると、二子で一手も緩まない戦いを挑んでくる碁歴60年の私から学ぶことはあると思いますが、三子で教えてもらう私からは学ぶことはないだろうと思っています。
三子に打ち込まれたくないと強く思っています。

三子に打ち込まれたら、私が宝物と思っている棋書をプレゼントすることにしています。彼のことはとても好きだから、私が長年読んだり見たりしてきた棋譜や棋書を全部引き継ぎたいのですが、彼も一方的にそういう書籍を送りつけられるのは不本意だろうと思います。

だから、私を三子にうちこんでみろ、そうしたらAmazonの中古で一万円以上するような棋書(奇書)を贈るよ、と言う片懸賞にしたのでした。

 

律義な彼は、「私も何か懸賞をかけたほうがいいのでしょうか?」と言ってくれたのだけれど君から何かもらいたいという欲求は全くありません。

老境に入りつつある私が思い切り碁を打つ相手をしてくれたら、それでいいのです。

 

60を過ぎてから思うのは、私たち年配者は若手に対して乗り越えるべき障壁となるべき、という事です。
いずれ彼は私との差を二子ではなくそれ以上に広げると思います。
だからこそ年配者はレベル上げを諦めてはならないという事です。

このことは、改めて語りたいと思います。

ようやく、掲題の囲碁クラシック音楽古典落語の話に入ります。

 

私はプロ棋士棋譜を見ることがとても好きです。
賢く生んでもらった(自分で言うのもアレだけど、もうすぐ死ぬので許してください)ので3歳のときには新聞に掲載されている囲碁欄を読むことが出来ました。
囲碁欄は数字を追っていくだけで理解できるのですが、棋譜の横に書いてある文章も読みたくて父母に教えてもらいました。
自分が読みたい文字を教えてもらえるのですから幸せなものです。

小学校に上がるときには「棋道」を手助けなくても楽に読めるようになっていました。
棋譜読みも、50手くらいが記載された棋譜は見た瞬間(1分くらいは必要かな)に脳裏に浮かべることが出来ました。


父は初段くらいの囲碁ファンで、棋道を毎月購読していました。
棋道も日本語を覚えつつある三歳児には貴重な教材でした。

付録の名曲細解が私の遊び友達でした。

イノシシが出て、それを仕留めたら晩秋の祭りの豚汁になる、というような田舎に育ったので身の回りには本当に文字情報が少なかったのです。


私の囲碁も、日本語も、そして死生観すらもこの時期の棋道に作ってもらったといっても過言ではないでしょう。

母が購読していた「暮らしの手帳」も大好きで、電球や乾電池の消費者レビューが楽しみでした。

今思うと、相当に賢い子供(私)だったと思いますが、田舎のこと故別に神童あつかいされることもなく普通に育ちました。

 

棋譜を見ながら、「もし、こののぞきに反発したらどうなるだろう」と思うことはありました。
そのときは碁盤に並べて考えました。
母親は「一人碁」と呼んで揶揄していましたが、わたしにとってはとても楽しい時間でした。

囲碁のルールと進行を理解して、おそらく3歳のころは田舎初段位では打てたと思います。ただ、囲碁は一人で碁盤に並べて鑑賞するという父の日曜日の楽しみをそばで見ていたので自分でプレーするとは全く考えませんでした。

 

そのころ同時に隣のお医者さんから将棋を教わったのですが、数か月後には振り駒(対等)となりました。

将棋は駒をつかった戦いだ、ということはルールを教えてもらって二枚落ちで指したときから理解しました。
お隣さんの実力はわかりませんが、私が生まれ育った村で唯一のお医者さんで、趣味が将棋ということで書棚ひとつを占拠する棋書がありましたから、初段くらいとしておきましょう。


将棋は勝ち負けを競うものと思いました。
将棋の棋譜は全く読んだことがありません。
詰将棋と定跡(囲碁では定石)だけをお隣さんの本で勉強しました。この頃6歳かな。9歳まではこの家にいました。

 

しかし、囲碁というのは鍛え上げられた専門家が至芸を競うものと理解していたので自分では全く打ちませんでした。

 

それから二十数年後、私が初めて好きになった人に結婚をお願いしたら、お父様が囲碁好きなので一局囲碁を打つことという条件が課されました。
そのときに父に、「碁石の持ち方や、対局の作法を教えて欲しい」と頼み、そのときに父は私が碁を打てるのだと知ったそうです。

お父様は初段くらいだったので定先で一生懸命に打ち、少し負けました。

負けたので賠償金代わりに娘さんが欲しいという赤い綺麗な石が入った指輪を差し上げることになりました。

 

激闘のドラマがある棋譜は何度見ても楽しいです。
それは耳になじんだクラシック音楽の名曲や、名人の落語、物静かな日本画の作品のように、何度でも、いつでも心を躍らせ、和ませてくれます。
小林光一趙治勲のタイトル戦などはその最たるものだと思います。
口では突っ張り合って悪口すらいうのだけれど、通奏低音には同世代の同門としての愛情があり、だからこそ負けるもんかという気持ちもにじむように思います。

母親のように慕っていた木谷礼子さんを、入門同期の小林光一が奪い(この結婚も素敵なドラマがあります)、その後大人になった趙治勲さんが北海道の女性と恋に落ちて通い詰める話など、同世代の男としてはグッときます。

 

私事ですが、60年間プレーヤーとしては初段でしたが、ここ数カ月でプレーヤーとしては突然覚醒しました。
おそらく3段で通用するようになったと思います。
今も読みの速さ、深さ、危険予知の感度は上がりつつあるので5段を目指していれば今の棋力は維持できるかなと思っています。
プロの至芸を鑑賞してきましたから、これからもプロの至芸を楽しみたいと思っています。
棋力が上がると、棋譜鑑賞の楽しみも深くなります。

 

囲碁は、AIがこれまで慮外としてきた着手の可能性を発掘してくれていますので、一層面白くなりました。
将棋は、AIの読みの速さと正確さが人間に勝っているので人間に圧勝しているように見えますが、まだ人間が将棋を諦める必要はないと思っています。
たとえば、50年近く前の将棋名人戦大山康晴名人に升田幸三九段が挑んだ七番勝負。
江戸時代に編み出された「石田流」を現代将棋に通用するように研究し、名人戦の大舞台で披露した升田九段にはしびれました。
AI将棋は強い、しかし「升田式石田流」を名人戦の大舞台で披露するような計算はできないからです。
AIの読みで補強し、新たな発見を加えて将棋もいずれ成長しはじめるんじゃないかな、と思っています。

それに比べて音楽と落語は進化を止めているように思います。
でも、人間の知力は無限だからAIの力を借りながら新たな音楽や落語文芸作品がでてくるに違いないと思っています。
たとえば、筋書きの設定をAIに頼り、アウトプットに自分の経験からくるシズル感のある表現をプラスするということで聴きごたえのある旅とグルメの旅行漫談などが出来そうです。
AIはあくまでもツールであって、それをどれくらい活用するかがポイントです。

 

私の寿命は平均からするとあと10年少々です。でも健康だし父方も母方も長寿の家系だから100歳まで元気で生きるとすればあと30年以上ということになります。
毎日おいしく自炊して、若い友人に年寄りの意見という「ストレス解消」をして、小綺麗に生きていきたいなと思います。

 

囲碁クラシック音楽古典落語の三題噺にするつもりでしたが囲碁のことしか書けませんでした。
続きはそのうち。