室内転倒の痛みについて
高齢者の自宅での三大死因は、転倒、誤嚥性肺炎、入浴事故といわれています。
先日睡眠剤が効きすぎて体をコントロールできなくなり左肩から左側頭部を打ちました。転倒ごときで即死するほどに危険をむき出しにはしていない室内ですが耳の後ろなどかなり出血しました。
その後、数日たった現在、打撲した左腕の痛みが形容しがたいほどです。もしこの腕を付け根から取り外して洗浄できるならそうしたいという感じです。
高齢者介護をしていたころ、このような訴えを何度となく聞きましたが教科書通り「お医者さんに鎮静剤を打ってもらいましょうね」ということにしていました。
対処療法としては間違っていないが、問題の解決にはなっていないことが今は理解できます。しかしながら解決策は何か、というと普通の考え方(人間は生き続けるべき)に従うと答えが出ません。
この痛みに耐えうるだけの人生の楽しみがあるか・・・・・なければなるべく少なくの人に迷惑をかけながら死ぬか。
上手な死に方についての情報がとても少ないように思います。
60歳を過ぎて身寄り頼りのない(あるいは希薄な)高齢者は希望に応じて行政が殺処分してくれてもいいのにな、と思います。60年も生きてきたらそれくらいのことを行政にお願いするくらいは贅沢ではないと思います。
自殺論 あるいは結婚について
やれやれ、確信犯ですかでもなぜ外に出たのだろう?そこが不思議。死ぬにしても、他人に迷惑かけないでおくれ。遺体というのは結構手間のかかるものなのです。(なんせ、遺体損壊罪というのがあって、粗末に扱えない結局遺族に引き取り強制されるよ)ところで、何で死ぬ気になったの?昨年に今頃は、OPDES仕事を喜んでやっていたようだし、その2・3年前は、店をやってこの世の春?ではなかった?このままだと、老人性うつですね、なんて片付けられておしまいだ。 それは嫌でしょ。仕事?家族?老後?まあいろいろあるけど、整理してみて、ネット上で表現してみたら。僕の知人にそんなのがいる。詩という表現だけど、結構元気だ。絵のやつもいるな。いいねもらって、楽しんでいる。死んだマネならいいけど、実際死ぬと再起ができないよしばらくしたら、何かしたくなるから、ゆっくり休みな。それと、眠剤飲んだら外に出るな。佐竹俊之
2020年12月12日(土) 6:30 八歩 <tokoroabe@gmail.com>:
--
囲碁、落語、文芸、将棋などの思い出。
囲碁を打って欲しいという記事を書いたのが一か月前。
その呼びかけに応じて一人の若者が打ってくれるようになりました。
OGSという囲碁対局サイトで、持ち時間無制限、お互いに打てるときに打つということで、平均3日かけて一局を打っています。
2局同時進行です。
その間に、「こちらは雨が降っていて寒いけどそちらはどう?」とか、「秋祭りで新米のおにぎりと豚汁を食べました」などの雑談をしています。
三十代前半、既婚、小さな子供さんがいて家業を継いで毎日仕事に汗を流している、という生活がチャットの端々から感じられます。
三十代前半と言うのは、63歳の私から見るとちょうど息子や娘の世代で若者という認識なのですが、社会的に見れば働き盛りの壮年ということになるような気がします。
しかし人生100年の時代ですから青年、壮年、老年の定義も見直す必要があるように思います。
ま、そういう定義を政府が主導してやる必要もないと思うので、私が属する60代前半はどこに属するかを考えてみます。
年金受給は65歳ですから63歳はまだ就労しなくては生活できません。
年金受給できる年齢になれば、数百万円の貯蓄があれば貯蓄を取り崩しつつ80歳くらいまでは質素な普通の生活をできると思います。
ここで言う「普通の生活」を私の生活に引き寄せて例示するなら
・家賃と水道光熱費の引き落としは心配しなくていい
・一週間に一度、餃子の王将、くら寿司、牛角レベルの外食をしても問題ない
・自宅で飲む安いワインや焼酎(麦が好き)は好きに飲める
・数カ月に一度、予算1万円~3万円で日帰りか一泊の旅行を楽しめる
・数カ月に一度、以前バイトで雇用していた若者に焼き鳥屋で酒をおごり昔話を聞いてもらう(迷惑だろうけど、それが私の楽しみなんだよ)
こんな感じです。
今、囲碁をネットでお相手してくれている若者は、私より二子上です。
ごちゃごちゃした石の取り合いでは老獪な私とほぼ互角と思います。しかし戦いが一段落した後でお互いに広い場所に打つわけですが、その感覚では私が負けています。
囲碁のハンディである置石がゼロにできる可能性もありますが、「勝負だ」という感覚が消滅して「教えてあげる」という力関係になる三子(圧倒的劣勢)に打ち込まれる可能性もあります。
彼からすると、二子で一手も緩まない戦いを挑んでくる碁歴60年の私から学ぶことはあると思いますが、三子で教えてもらう私からは学ぶことはないだろうと思っています。
三子に打ち込まれたくないと強く思っています。
三子に打ち込まれたら、私が宝物と思っている棋書をプレゼントすることにしています。彼のことはとても好きだから、私が長年読んだり見たりしてきた棋譜や棋書を全部引き継ぎたいのですが、彼も一方的にそういう書籍を送りつけられるのは不本意だろうと思います。
だから、私を三子にうちこんでみろ、そうしたらAmazonの中古で一万円以上するような棋書(奇書)を贈るよ、と言う片懸賞にしたのでした。
律義な彼は、「私も何か懸賞をかけたほうがいいのでしょうか?」と言ってくれたのだけれど君から何かもらいたいという欲求は全くありません。
老境に入りつつある私が思い切り碁を打つ相手をしてくれたら、それでいいのです。
60を過ぎてから思うのは、私たち年配者は若手に対して乗り越えるべき障壁となるべき、という事です。
いずれ彼は私との差を二子ではなくそれ以上に広げると思います。
だからこそ年配者はレベル上げを諦めてはならないという事です。
このことは、改めて語りたいと思います。
ようやく、掲題の囲碁とクラシック音楽と古典落語の話に入ります。
私はプロ棋士の棋譜を見ることがとても好きです。
賢く生んでもらった(自分で言うのもアレだけど、もうすぐ死ぬので許してください)ので3歳のときには新聞に掲載されている囲碁欄を読むことが出来ました。
囲碁欄は数字を追っていくだけで理解できるのですが、棋譜の横に書いてある文章も読みたくて父母に教えてもらいました。
自分が読みたい文字を教えてもらえるのですから幸せなものです。
小学校に上がるときには「棋道」を手助けなくても楽に読めるようになっていました。
棋譜読みも、50手くらいが記載された棋譜は見た瞬間(1分くらいは必要かな)に脳裏に浮かべることが出来ました。
父は初段くらいの囲碁ファンで、棋道を毎月購読していました。
棋道も日本語を覚えつつある三歳児には貴重な教材でした。
付録の名曲細解が私の遊び友達でした。
イノシシが出て、それを仕留めたら晩秋の祭りの豚汁になる、というような田舎に育ったので身の回りには本当に文字情報が少なかったのです。
私の囲碁も、日本語も、そして死生観すらもこの時期の棋道に作ってもらったといっても過言ではないでしょう。
母が購読していた「暮らしの手帳」も大好きで、電球や乾電池の消費者レビューが楽しみでした。
今思うと、相当に賢い子供(私)だったと思いますが、田舎のこと故別に神童あつかいされることもなく普通に育ちました。
棋譜を見ながら、「もし、こののぞきに反発したらどうなるだろう」と思うことはありました。
そのときは碁盤に並べて考えました。
母親は「一人碁」と呼んで揶揄していましたが、わたしにとってはとても楽しい時間でした。
囲碁のルールと進行を理解して、おそらく3歳のころは田舎初段位では打てたと思います。ただ、囲碁は一人で碁盤に並べて鑑賞するという父の日曜日の楽しみをそばで見ていたので自分でプレーするとは全く考えませんでした。
そのころ同時に隣のお医者さんから将棋を教わったのですが、数か月後には振り駒(対等)となりました。
将棋は駒をつかった戦いだ、ということはルールを教えてもらって二枚落ちで指したときから理解しました。
お隣さんの実力はわかりませんが、私が生まれ育った村で唯一のお医者さんで、趣味が将棋ということで書棚ひとつを占拠する棋書がありましたから、初段くらいとしておきましょう。
将棋は勝ち負けを競うものと思いました。
将棋の棋譜は全く読んだことがありません。
詰将棋と定跡(囲碁では定石)だけをお隣さんの本で勉強しました。この頃6歳かな。9歳まではこの家にいました。
しかし、囲碁というのは鍛え上げられた専門家が至芸を競うものと理解していたので自分では全く打ちませんでした。
それから二十数年後、私が初めて好きになった人に結婚をお願いしたら、お父様が囲碁好きなので一局囲碁を打つことという条件が課されました。
そのときに父に、「碁石の持ち方や、対局の作法を教えて欲しい」と頼み、そのときに父は私が碁を打てるのだと知ったそうです。
お父様は初段くらいだったので定先で一生懸命に打ち、少し負けました。
負けたので賠償金代わりに娘さんが欲しいという赤い綺麗な石が入った指輪を差し上げることになりました。
激闘のドラマがある棋譜は何度見ても楽しいです。
それは耳になじんだクラシック音楽の名曲や、名人の落語、物静かな日本画の作品のように、何度でも、いつでも心を躍らせ、和ませてくれます。
小林光一と趙治勲のタイトル戦などはその最たるものだと思います。
口では突っ張り合って悪口すらいうのだけれど、通奏低音には同世代の同門としての愛情があり、だからこそ負けるもんかという気持ちもにじむように思います。
母親のように慕っていた木谷礼子さんを、入門同期の小林光一が奪い(この結婚も素敵なドラマがあります)、その後大人になった趙治勲さんが北海道の女性と恋に落ちて通い詰める話など、同世代の男としてはグッときます。
私事ですが、60年間プレーヤーとしては初段でしたが、ここ数カ月でプレーヤーとしては突然覚醒しました。
おそらく3段で通用するようになったと思います。
今も読みの速さ、深さ、危険予知の感度は上がりつつあるので5段を目指していれば今の棋力は維持できるかなと思っています。
プロの至芸を鑑賞してきましたから、これからもプロの至芸を楽しみたいと思っています。
棋力が上がると、棋譜鑑賞の楽しみも深くなります。
囲碁は、AIがこれまで慮外としてきた着手の可能性を発掘してくれていますので、一層面白くなりました。
将棋は、AIの読みの速さと正確さが人間に勝っているので人間に圧勝しているように見えますが、まだ人間が将棋を諦める必要はないと思っています。
たとえば、50年近く前の将棋名人戦で大山康晴名人に升田幸三九段が挑んだ七番勝負。
江戸時代に編み出された「石田流」を現代将棋に通用するように研究し、名人戦の大舞台で披露した升田九段にはしびれました。
AI将棋は強い、しかし「升田式石田流」を名人戦の大舞台で披露するような計算はできないからです。
AIの読みで補強し、新たな発見を加えて将棋もいずれ成長しはじめるんじゃないかな、と思っています。
それに比べて音楽と落語は進化を止めているように思います。
でも、人間の知力は無限だからAIの力を借りながら新たな音楽や落語文芸作品がでてくるに違いないと思っています。
たとえば、筋書きの設定をAIに頼り、アウトプットに自分の経験からくるシズル感のある表現をプラスするということで聴きごたえのある旅とグルメの旅行漫談などが出来そうです。
AIはあくまでもツールであって、それをどれくらい活用するかがポイントです。
私の寿命は平均からするとあと10年少々です。でも健康だし父方も母方も長寿の家系だから100歳まで元気で生きるとすればあと30年以上ということになります。
毎日おいしく自炊して、若い友人に年寄りの意見という「ストレス解消」をして、小綺麗に生きていきたいなと思います。
囲碁、クラシック音楽、古典落語の三題噺にするつもりでしたが囲碁のことしか書けませんでした。
続きはそのうち。
つがい
子供のころに・・・・・
という書き出しでも、それが10年前の人もいれば半世紀以上前の人もいるのは当たり前ですが・・・・・・
子供のころ、いろんな生き物を飼いました。
基本は「つがい」。繁殖するためのペアの数え方です。
オスとメスをペアで飼って、繁殖を目指すわけです。
鈴虫なんかは、改めて「つがい」という概念をもちこまなくても、あいつらが勝手に「りんりん」騒いで、適当に交尾して、適当に産卵するから、いいんです。
その容器を縁の下にでも放り込んでおくと翌年はまた、発生しました。
しかし、つがいで飼ったハト、カブトムシ、金魚、ハツカネズミ、カメ・・・・多くの「つがい」は、繁殖することなく、死んで行きました。
涼しげな瞳の少年 (ぼくのことです)は、涙を浮かべながら、ポーレットと一緒に土に穴をほり、小さな骸を埋葬し、その上に、寺から盗んできた阿修羅像をトッピングしたものです。
そういう遊びは禁じられていたのですが、ポーレットがぼくに、阿修羅像をもとめるのです・・・・・・・(幼少期の記憶ゆえ、多少違うかもしれません)
ミシェル(ぼくの幼名・・・・)とポーレットも、こんな罰当たりな遊びをするものですから、ふたりは、つがいになることはなく、別々の人生を歩んでおります・・・・・・(すみません、もうやめます、こんな田舎漫談・・・・)
閑話休題
私が十年ほど前に住んでいた埼玉県、狭山丘陵のふもとの町は、中高齢者夫婦の散歩が盛んです。
わざわざ電車にのって、わが町までやってきて、自動販売機もない田舎道をテクテク歩くのです。
この人たちをみて、急に「つがい」ということをかんがえたら、なんか、可笑しくなりました。
ときどき、ふと懐かしくおもいだすことがあるしつけ係のおばちゃんは、法的には、ぼくが死んだら、数兆円とも目算される埋蔵金を含む莫大な財産を合法的にうけとることになっていたんですが・・・・(八桁ほどさばを読んでます)
生物飼育学的には、「つがい」だったんですね。
わかってたのに、あらためてそう認識すると、なんか可笑しい。
娘が幼稚園児だったころ、たくさんの古切手を親戚からもらいまして、それを娘が花、動物、図形・・・・・と分類していたことを思い出します。
平成の天皇陛下のご成婚記念切手が、パンダのとなりに並んでいます。
「どうしてここなの?」と聞いたら、「ここは哺乳類なんだよ」 とのこと。
うんうん、確かに哺乳類が、つがいで、印刷されてるんだよな・・・・・幼児の目は曇りがないなあ・・・・と思いました。
ふと、そういうことを思い出しました。
私と囲碁を打ってください
私の囲碁の話を聞いていただけますか?
独居初期老人の囲碁についての悩みです。
Dkさんのコメントをいただき始めて囲碁を打つことが面白くなってきました。
局後の感想を多少なりともしながら、勝ち負けは二の次という楽しい囲碁を打ちたいのですが、囲碁友達はほとんどいません。
強いて言えば一人いるのですが、忙しい人なのでネット碁でもなかなか付き合ってもらえません。
野狐囲碁で誰ともわからない人と無言で打ちお別れするのではなく、知人と碁を打ってみたいという気持ちになっています。
このグループの皆様でこういう年寄りのわがままに付き合ってやってもいいよ、という方がおられればぜひお願いしたいのです。
60年前に囲碁を知りましたが、幼児だったので囲碁っていうのは才のある人が技を競うものだと思い込みました。
父親は休日に月刊誌棋道を片手に棋譜ならべをしていた記憶があります。そういう姿から囲碁に接すると、囲碁は鑑賞するものと認識するはずです。
プロ棋譜は、名画や名曲を鑑賞するようなスタンスで相当数見ています。
解説もほとんど読まず(解説は高段者向けのものなので理解が難しいので無縁です)ただただ見ています。
それで面白いのかと聞かれたことはありますが、相撲を稽古したことはなくても相撲を鑑賞することはできます。楽しいです。
私は年齢が近いという事もあって趙治勲さんの棋譜は相当に見ています。もし、趙さんの未公開の棋譜があったとしても「これは趙さんが黒番ではないでしょうか」と言えます。
ショパンのピアノ曲が大好きな人なら、ショパンの未発見の曲を聴いた時「これは知らないけどショパンっぽいね」と言えるだろうという話と通じます。
リアルで碁を打つのは三十数年前からです。
長男が3歳の時に囲碁と将棋に興味を持ったことがきっかけでした。
生後まもない頃から入退院を繰り返し(今は元気な29歳)ていた長男に当直の医者が五目並べを教えたら、数手先の四三を読んで勝ったことがあり看護師(当時は看護婦と呼んでいた)が「この子、天才かもしれない。五目並べのプロになれるかも」と言われました。
医者は聡明でなくては困る職業ですけれど、遊びで教えた五目並べで天才を判定されては困ります。
息子は、「五目並べはすぐに終わるからつまらない、なかなか終わらない遊びがいい」というので、囲碁や将棋といった遊びがあるんだよ、今度教えてあげるね、と私は言いました。
妻に「どっちをすすめようか?」と聞いたら即答で「囲碁」でした。
理由は簡単。
なんでも口に持っていく三歳児の長男が間違えて呑み込んだら、碁石ならスルッと排泄しそうだが将棋の駒は大変不安だ、という事でした。
息子とは10年位は碁盤で打ちましたが、小学校の卒業祝いで旅行した時に一気に追い抜かれました。三子で一番手直りで、コミなしの黒まで打ち込まれました。
その後は時々ヒマつぶしにネット碁を打つ程度です。
私が囲碁部が盛んな企業に転職してから在職中の7年余り、昼休みのザル碁を打ちましたが、会社が不祥事で大規模な業務縮小(私はリストラ)せざるを得なくなってからは、時々ネットで碁を打つだけの人に戻りました。
今、外出自粛の空気が漂う東京都(池袋駅の近く)に住んでいて、感染症の拡散要因になりそうな63歳ですので、本気で自室に閉じこもっています。
現在初段~三段を昇降。
半年前は二級から二段を昇降していたので、1レべ半くらい急速にアップしたと思います。dkさんには感謝しています。
63歳という年齢を考えると、このペースでガンガン昇段するとは思えませんが、70歳で四段定着を目標にすればボケ老人にならないかも、と思っています。
外出自粛でYouTubeを観ています
4月3日 武田先生の「生命共生」の話は、ここ数カ月の虎ノ門ニュースで一番面白かったです。
1時間17分頃からスタートします。
https://www.youtube.com/watch?v=XhYAFvqZCgo&t=5677s
科学を突き詰めていくと幸福論や宗教論にいくということを、こんなに短い時間で分からせてくれるのは凄いと思いました。
武田先生がニコニコと機嫌よく「私たちがたぶん知らないだろうな」という話を解説してくれるコーナーをぜひ拡張してほしいと思いました。
武田先生の本質は、「高度な常識を普通の常識で生きている人に教えてくれるインターフェース」だと思っています。
普通の世界で生きている私からすると、お話を伺うだけで賢くなるような気がしています。
ですからこそ、須田さんという特異な能力(有数の取材力)のある人と組み合わせるよりも、以前の半井さん(お天気お姉さん)みたいな、質問上手で普通の知性教養の人(いわゆる常識的な人)と組み合わせてくれると面白いでしょう。
私の希望としては、「武田&大高」「有本&須田」の組み合わせを見たいです。
有本さんと須田さんは、取材力がすごいけれどドメインが異なるから、トークでお互いに知らないことが出てきて面白いんじゃないかと思います。
検討してもらいたくて、虎ノ門ニュースのWebにも投稿しました。
■
4月3日 武田先生の「生命共生」の話は、ここ数カ月の虎ノ門ニュースで一番面白かったです。
1時間17分頃からスタートします。
https://www.youtube.com/watch?v=XhYAFvqZCgo&t=5677s
科学を突き詰めていくと幸福論や宗教論にいくということを、こんなに短い時間で分からせてくれるのは凄いと思いました。
武田先生がニコニコと機嫌よく「私たちがたぶん知らないだろうな」という話を解説してくれるコーナーをぜひ拡張してほしいと思いました。
武田先生の本質は、「高度な常識を普通の常識で生きている人に教えてくれるインターフェース」だと思っています。
普通の世界で生きている私からすると、お話を伺うだけで賢くなるような気がしています。
ですからこそ、須田さんという特異な能力(有数の取材力)のある人と組み合わせるよりも、以前の半井さん(お天気お姉さん)みたいな、質問上手で普通の知性教養の人(いわゆる常識的な人)と組み合わせてくれると面白いでしょう。
私の希望としては、「武田&大高」「有本&須田」の組み合わせを見たいです。
有本さんと須田さんは、取材力がすごいけれどドメインが異なるから、トークでお互いに知らないことが出てきて面白いんじゃないかと思います。
検討してもらいたくて、虎ノ門ニュースのWebにも投稿しました。